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チェルシー舞花
モデルとして雑誌、広告など多方面で活動中。
執筆も積極的に行っており、SAVVY連載中。
  

† May 5th, 2017

こぎん刺しをめぐる旅/青森

chelsea maikaeditorrecommendこぎん刺しシェルシー舞花モデル

 

文章・写真/チェルシー舞花 

 

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こぎん刺しを見てみたいなあ、と数年前からぼんやり思っていた。

 

今、手に入るこぎん刺しの本を本屋や図書館で探し回って、ほれぼれしてみたり、小さな布で模様を刺してみた結果、総柄のこぎん刺しにかかるであろう圧倒的な時間と、幾何学模様の美しさにどんどん魅了されてしまった。

 

どうしてこんな緻密な柄が生まれたんだろうか。いつかあの総柄のこぎんを見てみたい‥

 

ふつふつと願っていたら、

 

ちょうどこの冬、真っ只中で青森の弘前を拠点にして2ヶ月の間、泊まりこみで滞在している映画の撮影チームがいるのだった。
同級生や先輩が撮影隊に参加していて、雪降る景色の写真を送ってきてくれている。
彼らに会いに行こう。

 

そして、"SUNDAY SEASIDE(http://sundayseaside.com)"という名前で活版印刷をしている鈴さんが青森に移住したのだった。
パワフルな鈴さんとはいつの間にやら友達で、埼玉の朝霞に大きなスタジオをアトリエに活版印刷機でデザインと活版印刷の仕事をしていたと思ったら、あっという間に移住を決めて結婚をしてあっという間に子供がもう1歳になったという。

 

会いたい人も、見たいものも降り積もってきたし、良い口実ができたところで。

 

雪ふりつもる青森へ。

 

 

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こぎん刺し、はじまりの話

 

 

今から200年あまり前、江戸時代のこと。

 

北国での綿の栽培は難しく高級品で、津軽の藩から綿の服を着てはいけないという厳しい掟があったため、農民たちは自給自足できる麻の衣類を身につけていました。

 

麻の種まいて自生させて刈り取って、糸に紡いで。それから反物に織って。衣類にしつらえて。

 

織った薄い麻だけではとてもとても冬は越せないので、穴を埋めることによって布の補強と保温のためにこぎんを刺したといいます。
この時代、女の子たちは5、6歳になると刺し子を習い始めて、模様は集落ごとに口頭や歌に乗せて模様を伝えいたそう。

 

地域ごとの移動もそう簡単ではないため、各地の特色のあるこぎんが発達しました。
綿を使ってはいけないという藩の掟があったけれども、北前船や近江商人の持ってきた綿の糸を被り物と、肌着の一部だけは使ってよし、というルールがあり、伝統のこぎんは麻の布に綿の糸で今に伝わるこぎん、という訳で。

 

時は流れ、明治中期には鉄道が通ることによって木綿が手に入るようになり、こぎん刺しはまた花開きましたが、大正時代には衣類の入手も簡単になり、女性が織りや刺しから解放されて、こぎん刺しの文化はどんどんと廃れていきました。

 

その後の昭和初期の民藝運動で、柳宗悦が「醜いこぎんは一枚もない。津軽の名もなき女性たち、良くこれほどのものを残してくれた」と改めてこぎん刺しを「用の美」の民藝品として発掘・再評価されました。

 

盛り上がる民藝運動の波に乗り、当時の弘前こぎん刺し研究所の初代館長の横島直道を中心として地元の農家を一軒一軒周り収集と文様の調査が行われました。

 

明治後期から30年近く経っていましたが、その頃にはまだこぎん刺しを経験した最後の世代が多く、話をつぶさに聞くことができました。
日用品としては使われなくなり、すっかり蔵に眠っていたこぎん刺しの文様を復刻することができたのです。

 

彼らの地道な調査無くしては今にこうしてこぎん刺しが残っていなかったのです。

 

 

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(こぎん刺しのお話を伺ったのは、個人で収拾を続けていた佐藤陽子こぎん展示館を営む佐藤陽子さん。150~200年前のこぎん刺しを手にとって触らせてもらいながら。)

 

さて。

こぎん刺しは「モドコ」(”元”の模様に青森の言葉ではよく最後に”こ”をつける)という菱形の基本の模様を40個程組み合わせて織物のように縫い刺していきます。
されに「囲み」や「流れ」と呼ばれる、繋ぎの模様、そこへ変形なども構成されると、可能性は無限大…!

 

 

当時は青森の日本海側が津軽藩、太平洋側が南部藩と二分されており、地域によって気候や環境が違っていたため東こぎん、西こぎん、三縞こぎんに南部の菱刺しと特色が違ったこぎんが生まれました。

 

何が違うかというと…

 

西こぎんの特徴は、肩の地刺しと背中の魔除けの模様。そして前身頃の細かな模様。
炭焼きで生活していたため、山から重たい炭を背負って折りたため、背には補強のために刺し子がほどこされていました。
炭俵は一俵4貫目あるそうです。(1貫目=3.75kg、なので×4で、15kg)これを4俵背負ったので、すべてで60kg。(!!)
これを山道を持ってくる。肩に負担がかかって服が弱りやすので肩に特に刺し子をして強くしていた。
白い糸で刺しているところ、濃くなる所は藍染の糸でびっちりと。

 

東こぎんの特徴は、水田地帯で、太めの麻糸で織った粗めの布に刺したものが多く、おおらかで一種類の模様が大胆に入っているもの。今では田んぼアートでも知られる地域。水田地帯なのでこちらでは基本の模様で、「畦道」「稲穂」や「猫の足」などがうまれたのではと言われています。田のあるところはお客さんの出入りも激しいのでなんとなく洒落っ気があったり。

 

三縞こぎんは、前身頃に三本の縞が入っているのが特徴なものの、飢饉が3年に1度起きて、食べるのが精一杯で数が少ないという。
佐藤さんの展示館に来た80過ぎのおばあちゃんが2回程来て、今、終活をしていると。身辺を整理していて、実家の蔵の中にこぎんがあった。ゴミと一緒に。調べたら、4代前のおじいちゃんが着ていたこぎんで。ここへ来て、こぎんてそんなに大事なんですか、と改めて知ったんだそう。
だからこのへんの8割の農民だった人が生活の中にあまりに当たり前にあったから、今じゃもっと着心地の良いものがあるから、需要はないないわけでどんどん捨てられていて。

 

佐藤さんも最初は、近所の人たちに、どうしてこぎんなんか改めて、と言われたんだそう。

 

 

模様は、写真を見てもらうとわかりやすいかもしれない‥

 

 

西こぎんの前身頃、右側。
上から、地刺し/そろばん刺し/虫食い/矢の羽刺し奇数目数で刺すのが基本のこぎん刺しにおいて例外の「そろばん刺し」。偶数目で拾うので横長になるんだそう。
あああ、なんて素敵。

 

 

 

西こぎんの前身頃、左側。
ふくべ/矢の羽刺しの糸流れ/

 

 

 

西こぎん、野良着の後身頃。
一番上の縞は一目づつ拾った地刺し。
その下は魔除けの馬の轡つなぎ。そして矢の羽刺し。

 

縞の下は馬の轡繋ぎ(くつわつなぎ)というもの。
この模様は魔除けになっていて炭俵背負って山道を降りて来るので熊や蛇に襲われないようにという願いが込められている。
西こぎんを見るとほとんどの背中に入っているそう。

 

 

これは、二重刺しの裏側。
一番初めの柄が残っている。
ここから三重刺しともなっていくと、補強の意味などが強いために、模様を縦にも地刺ししていき、羽織ってみると重く、ちょっとの雨などはじくウォータープルーフに。

 

刺したばかりの物は、丈・着丈を長くして、晴れ着、町着として。
だんだんと着古してきたら、袖丈と着丈を少し短くして普段着に。
最後に鉄砲袖にして丈も短くして、野良着へ。
そして、油や土で汚れてしまって、これは野良着にもちょっとね、となってくると、藍で染めてまた着るという。

 

 

この延々と大切につないでいくという感覚が、今じゃちょっと、到底想像がつかない。

 

 

厳しい藩の制度がなかったら生まれていなかったであろうこぎん刺し。
全国いろんなところに伝統工芸はありますが、藩で奨励した事業がほとんどの中、津軽のこぎん刺しは生活の中から自らが生み出されたものなのでした。

 

今みたいに除雪機があるわけでもなしに、雪の時期はもうほとんど外に出ないで作られたこのこぎん刺したちにほとほと圧倒されて帰ってきました。

 

 

 

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弘前こぎん研究所では今にこぎんを伝え、残していく活動をしている。
こぎん研究所の製品を刺し子さんたちが在宅で縫い継いでいるそう。

 

いまの暮らしにすっと寄り添う小物を作っている。

 

巾着と、しおり、コースターなどなど、誕生日を迎えるアメリカのおばあちゃんの分と、もうすぐ誕生日の私の分とお揃いで。
使うたびに相手のことを思えるなと。

 

 

買った材料///////////////

 

草木染めの糸。温泉のあるいわき荘の物販にて。
宿の近くに住む人が染めたんだそう。

 

 

佐藤陽子こぎん研究所でも、布とオリジナルに染めた糸を破格の値段で譲ってもらう。

 

 

こぎん刺しのオリジナル商品を出している、手芸店「つきや」の布と糸も。

 

 

○今も手に入るこぎん刺しのおすすめ本。

 

「津軽こぎん刺し 技法と図案集」(弘前こぎん研究所監修)
「はじめての菱刺し」(蔵茂様美著)

 

 

 

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最後に少し、映画の話。

 

日仏共同制作の映画を青森に2ヶ月程滞在して撮影している彼ら。

 

監督は、フランスの映画監督、ダミアン・マニヴェルと東京在住の映画監督、五十嵐耕平。

 

2014年にスイスで行われたロカルノ国際映画祭で出会った2人。

 

「デッサン」ある冬の日の少年の小さな冒険の物語。
予測不能の天候と、予測不能に集中力の切れる7歳の小学生の男の子と、監督とのせめぎ合い。

 

スタッフ皆が小学生に人気のベイブレードに詳しくなっていた。

 

 

五十嵐さんの2015年に公開された映画「息を殺して」(http://ikikoro.tumblr.com)は是非、見て欲しい。

 

 

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(photo/鈴木理恵)

 

 

旅好き。古道具と行く直前はリサーチの鬼と化す。旅と運動用にハイテクインナーを買うのが好き。

 

 

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